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2014.09/13 [Sat]
「毒になる親」からの離別
先日の記事で、「毒になる親(毒親)」という言葉が市民権を得てきている現状について言及しましたが、このような「毒になる親(子供を自分の都合よく常に支配し、精神的ダメージを与える親)」からの独立、離別、決別を決意したとき、一番の障害となるのは「同情心」と「罪悪感」なのですね。
というのも、「毒になる親」のもとに生まれている方ほど、もともとの性格が優しく、同情心も人一倍厚いということはよくあることなのです。
そもそも、そのような組み合わせだからこそ、「毒になる親」にどこまでも依存、支配され、苦しんでしまうのですね。
子供のほうでも「あんな親大嫌い。もうどうでもいい。」とさっさと親を見限ることが出来るような状態なら、そもそも「毒になる」状況が長引くことはないのです。
そうではなく、子供のほうが幼少期から「親」のような立場になって、際限なく親の自己中心的な甘えや依存を許容し続けてしまうからこそ、苦しんでしまうのです。
「毒になる親」は、幼少期から何かと、「子供が「自分(親)」を喜ばせる行動をとるように」、仕向けるものです。
その際のやり方(操作の仕方)は様々ですが、「あなたが私の幸せのすべてなの。」という、一見いかにも「愛」に満ちていそうな文句で洗脳することも多いのではないでしょうか。
しかしそれは、逆に言えば「私はあなたがいないと不幸なの。(だからずっと私のそばにいて私を満足させて。)」ということであり、完璧な「依存」なのですね。
それは「愛」ではないのです。
このような「毒親」は、子供が親からの自立を図ろうとすると、大変な恐怖に襲われます。
その結果、「親の私をこんなに悲しませるなんて、この親不孝者」ということになるのですね。
しかし、本当に自分で言うとおり、それほど「子煩悩」な親だったら、そもそも自分のいないところで子供が幸せにしていても、それを「子供が幸せにしていて本当に良かった」と、喜べるはずなのです。
「毒になる親」は、子供に「罪の意識」を植え付け「操作」するのが得意なので(そもそも、支配と服従しか理解できない世界に身をおいている魂なのですね)、根が優しく慈愛に満ちた子供ほど、つい親の口車にのって「罪」の意識にとらわれてしまうことはよくあることです。
しかし、こうした親は、口では「あなたのため」と言いながら、実は自分のことしか考えていないのです。
それゆえ、「毒になる」のです。
自分の人生を自分の自由な選択と決断のもと精一杯生きるのは、宇宙において「当たり前」のことであり、子供がただ「当たり前」に自分の人生を生きようとしているだけで「罪の意識」を絶えず植え付けるのは、親のほうに問題があるのです。
「毒になる親」は、「私は孤独になってしまう。なんでこんな目に合わせるの。あんなにしてやったのに。」というような、「同情心」や「罪悪感」を誘うような言葉を多く使用し、ときには涙さえもみせて子供をコントロールしようとするものです。
しかし、宇宙において、すべては「自己責任」なのです。
子供が、「自分の親は「毒になる親」なのだ」と気付き、決別を選択して自分のもとを離れていく、という「経験」を自分の身に引き寄せたのも、親本人の「自己責任」なのです。
子供が「毒になる親」の甘えや依存による「支配」を際限なく受け入れて応えている限り、「毒になる親」は自分のあり方を見直す機会(「愛」「自立」「自由」といったものについて学ぶ機会)を持てないままなのです。
このような親子関係において、親よりも子供のほうが親に対する「無償の愛」を持ち得ていることが殆どですが、「愛」があるからこそ、相手が学ぶ機会を提供するきっかけ(離別、決別)を与えることも大切なのですね。
自分を満たすために子供を利用し、自分に都合よく縛り付けて道具として使用することは、子供の「自由を奪う」行為であり、それは著しく宇宙の流れに「反する」行為です。
このような「毒になる親」のもとに生まれてきている魂にとって、「自分を大切にする」ということを学ぶこと、そして「自分の自由を認める」ことこそが、カルマのバランスをとるために必要なことなのですね。
「毒になる親」のもとに生まれてきている魂ほど、過去生においても「人に与える」ばかりで自分の人生を後回しにしてしまった経緯を持っていることが多いのです。
「自分の人生を十分に生きることができなかった(自分を十分に大切に出来なかった)」というのが、課題(カルマ)として残されていることが多いのですね。
だからこそ、今生において、いかなる「依存」や「支配」も受け入れることなく、そのようなものに甘んじることなく、「自分の人生、自分の自由を大切にする」行動を選択するべきなのです。
洗脳による「同情心」や「罪悪感」の植え付けに屈することなく、自由で健やかな人生を取り戻していきたいですね☆
(^_^)

というのも、「毒になる親」のもとに生まれている方ほど、もともとの性格が優しく、同情心も人一倍厚いということはよくあることなのです。
そもそも、そのような組み合わせだからこそ、「毒になる親」にどこまでも依存、支配され、苦しんでしまうのですね。
子供のほうでも「あんな親大嫌い。もうどうでもいい。」とさっさと親を見限ることが出来るような状態なら、そもそも「毒になる」状況が長引くことはないのです。
そうではなく、子供のほうが幼少期から「親」のような立場になって、際限なく親の自己中心的な甘えや依存を許容し続けてしまうからこそ、苦しんでしまうのです。
「毒になる親」は、幼少期から何かと、「子供が「自分(親)」を喜ばせる行動をとるように」、仕向けるものです。
その際のやり方(操作の仕方)は様々ですが、「あなたが私の幸せのすべてなの。」という、一見いかにも「愛」に満ちていそうな文句で洗脳することも多いのではないでしょうか。
しかしそれは、逆に言えば「私はあなたがいないと不幸なの。(だからずっと私のそばにいて私を満足させて。)」ということであり、完璧な「依存」なのですね。
それは「愛」ではないのです。
このような「毒親」は、子供が親からの自立を図ろうとすると、大変な恐怖に襲われます。
その結果、「親の私をこんなに悲しませるなんて、この親不孝者」ということになるのですね。
しかし、本当に自分で言うとおり、それほど「子煩悩」な親だったら、そもそも自分のいないところで子供が幸せにしていても、それを「子供が幸せにしていて本当に良かった」と、喜べるはずなのです。
「毒になる親」は、子供に「罪の意識」を植え付け「操作」するのが得意なので(そもそも、支配と服従しか理解できない世界に身をおいている魂なのですね)、根が優しく慈愛に満ちた子供ほど、つい親の口車にのって「罪」の意識にとらわれてしまうことはよくあることです。
しかし、こうした親は、口では「あなたのため」と言いながら、実は自分のことしか考えていないのです。
それゆえ、「毒になる」のです。
自分の人生を自分の自由な選択と決断のもと精一杯生きるのは、宇宙において「当たり前」のことであり、子供がただ「当たり前」に自分の人生を生きようとしているだけで「罪の意識」を絶えず植え付けるのは、親のほうに問題があるのです。
「毒になる親」は、「私は孤独になってしまう。なんでこんな目に合わせるの。あんなにしてやったのに。」というような、「同情心」や「罪悪感」を誘うような言葉を多く使用し、ときには涙さえもみせて子供をコントロールしようとするものです。
しかし、宇宙において、すべては「自己責任」なのです。
子供が、「自分の親は「毒になる親」なのだ」と気付き、決別を選択して自分のもとを離れていく、という「経験」を自分の身に引き寄せたのも、親本人の「自己責任」なのです。
子供が「毒になる親」の甘えや依存による「支配」を際限なく受け入れて応えている限り、「毒になる親」は自分のあり方を見直す機会(「愛」「自立」「自由」といったものについて学ぶ機会)を持てないままなのです。
このような親子関係において、親よりも子供のほうが親に対する「無償の愛」を持ち得ていることが殆どですが、「愛」があるからこそ、相手が学ぶ機会を提供するきっかけ(離別、決別)を与えることも大切なのですね。
自分を満たすために子供を利用し、自分に都合よく縛り付けて道具として使用することは、子供の「自由を奪う」行為であり、それは著しく宇宙の流れに「反する」行為です。
このような「毒になる親」のもとに生まれてきている魂にとって、「自分を大切にする」ということを学ぶこと、そして「自分の自由を認める」ことこそが、カルマのバランスをとるために必要なことなのですね。
「毒になる親」のもとに生まれてきている魂ほど、過去生においても「人に与える」ばかりで自分の人生を後回しにしてしまった経緯を持っていることが多いのです。
「自分の人生を十分に生きることができなかった(自分を十分に大切に出来なかった)」というのが、課題(カルマ)として残されていることが多いのですね。
だからこそ、今生において、いかなる「依存」や「支配」も受け入れることなく、そのようなものに甘んじることなく、「自分の人生、自分の自由を大切にする」行動を選択するべきなのです。
洗脳による「同情心」や「罪悪感」の植え付けに屈することなく、自由で健やかな人生を取り戻していきたいですね☆
(^_^)

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- [心の考察(人間関係・親子問題)]
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