メンタルセラピストりりあの心のブログ

☆高次意識と共に…☆ メンタルセラピストの心の小部屋へようこそ

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高次意識メッセージ ¥9,700.-

人間関係カウンセリング ¥23,700.-

(人間関係におけるモラルハラスメント、過干渉、支配、依存など。自分自身の人生の自由と尊厳を守りたい、取り戻したい方のための、より具体的かつ実践的、そして丁寧で念入りなカウンセリングです。「高次意識メッセージ」および「遠隔ヒーリング」を含みます。クライアント様のメールアドレスへ、数ページにわたるカウンセリングレポートをお届けするスタイルですので、遠隔にいらっしゃる方でもカウンセリング可能であり、レポートを繰り返し読んでいただくことでより深い理解へと導くことが出来るというメリットがあります。特に初めてのクライアント様は、カウンセリングを受けていただくことをおすすめします。)
★「毒になる親(毒親、毒母)」に関するお悩みのためのカウンセリング
★「配偶者、兄弟姉妹、友人など」に関するお悩みのためのカウンセリング
★「離婚」「相続争い」など、調停や裁判における心理的サポートのためのカウンセリング
 など


ご希望の方は、右側にございますメールフォームから、下記の詳細についてご連絡ください。
(こちらからご返信させていただきますので、メールアドレス明記してください。すべてメールによる遠隔カウンセリングになります。後にWordによるレポートファイルを添付しご送付させていただきますので、携帯用ではないアドレスでお願い申し上げます。)
 
☆ フルネーム
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☆ 居住地(都道府県など大雑把でかまいません)
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その後、こちらからご提示させていただく銀行口座へのお振込みをしていただきます。

尚、高次意識のメッセージや、カウンセリングによるアドバイスをスムーズに理解していただくためにも、お申し込みの前に、少しでも私の執筆しておりますブログ記事に目を通していただき、多少の開眼をもってお申し込みくださるよう、お願い申し上げます。(^_^)

ブログは下から (随時更新中)
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ここまで来た自分を褒めてあげるということ

誰でもときには、過去自分未熟さ恥ずかしく感じたり、過去自分愚かさ怒りを感じたりすることがあるものです。

そんなときは、「未熟だった」「愚かだった」と過去の自分を責めるのではなく、もがきながらも「現在の立ち位置まで進んできた自分」褒めてあげましょう。

どのような人間でも、ときには間違い失敗を犯すものです。

どのような聖人君主でも、全く間違い失敗経験持たず精神的高みへと登り詰めた人など1人いないのです。

間違い失敗があるからこそ、その裏側「学び」の機会があります。

精神的高みを目指す、私たち「人間」という存在にとって、間違い失敗という経験は「宝」なのです。

数々の間違いや失敗を乗り越え「ここまで進んできた自分」を、多いに褒めてあげましょう。^^

花23

「障がい者」という言葉

私は、「障がい者」という言葉が好きではありません

たとえ日常生活において不都合が生じるようなハンディキャップがあったとしても、「障がい」があることがその人のすべてではないからです。

「障がい者」という言葉の中に、まるで「障がいがあること」がその人のすべてであるかのような響きを感じてしまい、違和感を感じるのです。

人間はそもそも精神的な存在であり、(障がいがあろうとなかろうと)「肉体」は所詮、「(この世限りの)乗り物」のようなものです。

たとえ「乗り物(肉体)」にいくばくかの不都合があったとしても、その中に存在している「中身」は実に美しく輝いている人も数多くいます。

そのような方たちのことを表現するのに、「障がい者」という一言で片付けるわけにはいかないと思ってしまうのです。

「視力に障がいがあるけれどとても心豊か素敵な人」「足に障がいがあるけれど常に前向きでものすごく魅力的な人」というように、その方の「人となり(内面)」きちんと表す言い方が、私は好きです。

花22

定型発達にこそ必要な「教育(療育)」

今の世の中において、多数派(マジョリティ)である「定型(平均的)発達」でない、神経発達の具合に独自特性が見られる子供に対して「発達障がい」レッテルを貼り、平均的(定型)発達の子供と区別する流れがまかりとおっています。

しかしこれからの時代において、「定型(平均的)発達」の人間にこそ必要な「教育(療育)」もあるのでは、と私は思っています。

それは、「人は一人ひとり皆違う」ということ、そして「他者の個性を認め尊重する」ということをきちんと学ぶことです。

「インクルーシブ教育」という言葉がありますが、インクルーシブであるためには、「定型(平均的)発達」側人間意識改革不可欠なのです。

というのも、今の地球において多数派「定型」とされる人間タイプは、つまるところ「集団適応型」であり、しばしば「集団やり易さ最優先にするあまり、個性強い者、自分たち(多数派)と違う者を排除しようとする」ような、「非寛容」「排他的」行動出易いからです。

(もちろん、「定型発達」と「独自発達」の間にはっきりとした線引きが必ずあるわけではなく、「定型」の範疇であっても多少の「独自発達」的な思考・行動パターンを持つ人もかなりいるでしょう。ここで言及しているのは、そのような方たちではなく、まさに集団適応型の極みのようなタイプのことを指しています。)

アメリカにおける自閉スペクトラム協会によって定義された「定型発達症候群(Neurotypical Syndrome)」という言葉がありますが、まさに言いえて妙だと思います。

息子と一緒に公園や子供のための遊び場に足を運ぶと多くの子供たちの様子を目にしますが、ごくごく小さいうちから「○○ちゃんはだめ」「○○の子だけ一緒に遊んでいいよ」などと、「差別、排他」により「仲間うちを強固にする」ような行動をとる子供の様子を度々目にすることがあり、ぎょっとすることが数多くあるのです。

大抵の場合、こうした行動をとっている子供のほうが小さいうちから言葉達者だったり自分より強い者に対しては従順に振舞う行動パターンを身に付けていたりするので、検診などでは「定型発達」として「問題なし」とされるのでしょうが、子供の頃からこのような「差別」「排他」による「仲間強化」の行動をごく自然とっている姿を見ると、(一体どちらが「障がい」なのか…)と思ってしまいます。
(今の世において「発達障がい」のレッテルを貼られるタイプの子供には、こうした意地悪な排他的行動はまず見受けられないと思います。なぜなら、彼らの多くは究極的なマイペース型であり「集団の中での自分」という意識すら持ち合わせていないからです。)

お互いの個性認め合い尊重し合うような「精神的成熟度の高い」社会を作っていくには、子供のころからの「「個性を認め、尊重する」考え方を学ぶ教育」不可欠だと、強く感じます。

光1

自閉スペクトラム特性に関する数々の誤解

自閉スペクトラム特性(私は安易に「障がい」や「症(病気)」という言葉をつけることに賛成していないので、「症」ではなく「特性」という表現をしています。)というものについて日本語で書かれている情報(書籍やウェブ含め)を見ていると、「コミュニケーション能力の欠如」「共感性の欠如」など、「欠けている」「足りない」と、さも「劣っている」いわんばかりの表現が目立ちます。

しかし、事実は決してそうではないと、私は思っています。

それら(「足りない」「欠けている」という見方)は、あくまでも、「平均的(定型とされる)発達の人間から見た、一方的推測」に過ぎないのです。

正しくは「欠如している」のではなく、「(必要性が)意識に挙がっていない」のです。

今の世の中において「定型発達」とされる平均的な大多数の人間とは、「集団適応型」です。

原始の時代から、物質世界において生き延びるために、人間は「集団」となって共通の敵(獰猛な動物だったり、過酷な自然だったりと、何が「敵」かは様々ですが…)と向き合ってきた経緯があります。

「集団」の力を保つためには、まわりの人間の顔色を伺い、まわりの人間に合わせたり、長となる強い人間に従ったりする能力が必須なのです。

つまり、「定型発達者」の言う「コミュニケーション能力」とは、つまりは「集団適応能力」なのであり、「物質世界」生き延びるために人間が必要としてきた、極めて「物質的」スキルなのです。

では、自閉スペクトラムといわれる特性を持つ人間は、どのような状態なのか。

私には、「独自精神世界型」または「自己完結型」という表現がしっくりくるような気がします。

自閉スペクトラムの特性を持つ人たちにも様々個性があり、どのような性格でどのような行動パターンを持つかは人それぞれですが、おおむね共通しているのは「人の模倣しない」「人の指図届きにくい」といった部分ではないかと思います。

しかしそれらは、「出来ていない(欠如している)」のではなく、「(その必要性すら)意識に挙がらない」のです。

それは、自閉スペクトラム特性というものが、「集団適応型ではない」からです。

自閉スペクトラム特性のにとって、「合わせる→強いては集団合わせる」ことよりも、「自分自身が常に自分自身であること」のほうが、より大切なのです。

つまり、定型発達というものが「物質世界適応型」なのに対し、自閉スペクトラム特性「精神世界型」とも言えるのではないか、と私は思います。

(以前、非常に強いサイキック能力を持つ知り合いの方が、「自閉の子は魂の純度が高いから、幼少期に魂を閉じて守っている」と表現していたのですが、私もこの方と似たような印象を持っています。自閉スペクトラムと呼ばれる特性を持つ方(子供でも大人になった方でも)は、内側から発する光が強く、エゴをあまり身にまとっていないと感じるからです。)

また、「共感性の欠如」ということについては、私ははっきりと「間違い」であると思っています。

多くの「定型(平均的)発達者」ある思われているものは、「共感性」ではなく、「追従性」なのでは、と感じるのです。

定型発達と呼ばれるタイプは基本的に「集団適応型」であると書きましたが、集団の中での立場地位保つために、「心から相手の言っていることを理解していなくとも、理解しているように振舞う」、また、「心から相手の言っていることに賛同していなくとも、賛同しているように振舞う」定型発達型人間は、数多くいます。

それは、本当の意味での「共感」ではなく、集団での地位を保つために、「追従」しているだけなのです。

もちろん、定型発達型の人間であっても、意見気持ちから共感することはあるでしょう。

しかしそれは、自閉スペクトラム特性の人間であっても、同じなのです。

(ちなみに、日本における自閉スペクトラム特性についての情報は、かなりの部分でアメリカでなされた研究結果や情報がもととなっているのではないかと思われますが、そのアメリカにおける様々なレポートや情報に目を通しても、「共感性Empathyの欠如」という表現は見当たりません。ただ、日本においても昨今、「定型発達の人間でも共感性のない人間は沢山います」とはっきりと発言している精神科医の方もいらっしゃるようで、彼らの存在を頼もしく感じますが、それと同時に、一体「共感性の欠如」という表現はいつ誰が言い始めたのか、不思議に思います。)

時代が変われば、それまで「当たり前」とされてきた情報「間違いだった(未成熟な情報だった)」と認められ、より新しい情報や意識台頭してくることは多々あります。

自閉スペクトラム特性神経発達というものに関しても、時代の流れと共に、新しいポジティブ見解が増えていくことを心から願っています。

宇宙11

独自発達

昨今において、定型発達対する定義として長らく使われてきた「発達障害」という言葉ですが、事実そぐなわないため不適切であるという考え方が主流となってきて、医学界においては「神経発達症(特性)」という定義の仕方に変えていくよう働きかけがなされているようです。

私も、この考え方に心から賛成しています。

自閉スペクトラムADHDなど、発達過程働き方「一般的(平均的)ではない」からといって、治すべき「病」というわけでもなければ、必ずしも日常生活に不都合が生じる「障がい」というわけでもないからです。

(日々の生活において不都合が生じるレベルは個人により違うので、場合によっては「障がい」が発生する場合もあるとは思いますが、「定型発達でないもの=「障がい」」などというのは非常に短絡的安易すぎるのです。そもそも、もともとの英語による表現は「Development Disorder」であり、「発達の順序が違う」という意味なのですから、「発達非順」などと訳したほうが正確だったのでは、と思います。それを「障がい」と訳してしまったことが、そもそもの間違いなのです。)

更に言えば、私自身は、定型違う発達具合のことを、「独自発達」と、捉えています。
(精神科医の方の中には、「定型」が多数派(マジョリティ)であることに対する言葉として、「発達マイノリティ」という言葉で表現する方もいるようです。)

「発達障害という言葉は嫌いですし、使いません。」と明言する精神科医の方がいらっしゃることに、頼もしさを感じますし、私もこのような考え方に心から賛成しています。

昨今において、「発達障がい」という言葉を当たり前のように使っている方が実に多いですが、「あなたはどこまで、自閉スペクトラム特性(私は安易に「症」という表現をすることが好きではないので、特性と表現しています。)やADHDのことを理解しているのですか?平均的な発達具合と「違う」というだけでそのようなレッテルを貼られる人の気持ちを考えたことはありますか?」と問いかけたくなります。

たかが言葉、という方もいるかもしれませんが、「言葉」は人の中に「意識」刷り込みます。

「一般的な状態と違う」というだけで「障がい」などというのは、あまりにも短絡的で、いらぬ偏見だけを生み出す結果となってしまいます。

まずは「発達検査」「診断」に関わる人たちによって、「発達障がい」という言い方を改め「(神経)発達症(特性)」「発達マイノリティ」、または私の思う「独自発達」というような、「事実が正しく伝わる言葉」を使うことを主導していくべきなのでは、と、強く思います。

光2

盲目的なルールフォローを強いる人たち

世の中には、「盲目的ルール遵守することを他人に強いる」人間が、少なからずいます。

そのような方たちは、概して、「何のためにそのルールがあるのか」を、理解していないことが多いのです。

ただ単純に、「ルールなのだから守らないと駄目」と、盲目的に従い、そしてそれを他者にも強要するのですね。

しかし、「盲目的にルールを守る」態度は、ときとして非常に危険なのです。

地球という、精神的未発達人間社会において、ときに「悪」蔓延ることは多々あります。

人種差別の果てに、ある特定人種だけを虐殺したり、ある特定地域の人間を奴隷として支配自由奪ったりなど、この地球上の歴史には「宇宙における正しい流れ(在り方)」に背く「悪」猛威を振るった過去数多く存在することを、知らない人間はあまりいないでしょう。

そのような状況において、「盲目的にルールを守る」だけの人間は、いとも簡単に、「悪」加担する一員となってしまうのです。

なぜなら、「それがルールだから」と、盲目的権力従う思考回路しか持ち合わせていないため、「人間として正しいかどうか」「そのルールが従うに値するかどうか」を、自分自身見極める能力ないからです。

「盲目的にルールを守る」ということは、例えていえば、「左右両方向において全く車の影も形も見当たらない、見晴らしの良い田舎道の信号においてさえも(要するに、どこからどう見ても安全だと容易に判断できるような状況においてすらも)、「赤だから」という理由で絶対に渡ることなく、青になるまで延々と、じっと待っている」ようなものです。

そのような行動しかとることが出来ない人は、そもそも、「赤のときは止まる」というルールが、「何のためにあるのか」、そして「今の状況においてそのルールは従うに値するのかどうか」を、理解判断も出来ていないのですね。

更には困ったことに、そのような「盲目的にルールに従う」タイプの人間ほど、同じように「盲目的にルールに従う」ことを、おこがましくも、他者に強いることが多いのです。

おこがましい、と敢えて表現するのは、この世において、「自分の頭しっかり考えているからこそ、ルールに盲目的に従うことを拒否している」人間のほうが、「何も考えずに盲目的に従っているだけ」の人間に「悪者扱い」されて「攻撃」されるというシチュエーションが実に多いからです。

自分何も考えていない人間が、「自分でしっかり考えて自分の責任において行動選択をしている人間」に「説教」したり「強い」たりすることほど、おこがましいことはないのです。

「そのルールが何のためにあるのか」「そのルールは守るに値するものなのか」を、自分自身でしっかりと考え判断する態度を、身に着けていきたいですね

宇宙7

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プロフィール

りりあ

Author:りりあ
感情体に残る傷や不健全な思考・行動パターンを修復するメンタルセラピスト(カウンセラー)として、クライアントの方がポジティブなエネルギーを取り戻し、より自由で幸せな人生へと飛躍していくためのお手伝いをさせていただいております。
(特に、「毒親に関する問題」のように、家族や近親者など身近な人間から受けた理不尽な支配やいじめによる精神的ダメージを修復しつつ、「自由」を手にしていくためのサポートを得意としております。これらはすべて、学業のみならず自身の生まれ持った資質(「目に見えない領域」に対する感度が高い)、及び経験に基づくものでもあります。)

経歴:
哲学士(Bachelor of philosophy)として上智大学にて形而上学(哲学、倫理学)を専攻。心理学、精神医学など含め、「目に見えない領域」について多く学ぶ。
卒業後、外資系金融機関に身を置く。
その後、ブログ執筆及びカウンセリングによるメンタルセラピストとしての活動を開始。
現在、高齢出産にて授かった息子の子育て中。

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