メンタルセラピストりりあの心のブログ

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定型発達にこそ必要な「教育(療育)」

今の世の中において、多数派(マジョリティ)である「定型(平均的)発達」でない、神経発達の具合に独自特性が見られる子供に対して「発達障がい」レッテルを貼り、安易「療育」薦めるような流れがまかりとおっています。

しかしこれからの時代において、「定型(平均的)発達」の人間にこそ必要な「教育(療育)」もあるのでは、と私は思っています。

それは、「人は一人ひとり皆違う」ということ、そして「他者の個性を認め尊重する」ということを徹底的学ぶことです。

「インクルーシブ教育」という言葉がありますが、インクルーシブであるためには、「定型(平均的)発達」側人間意識改革不可欠なのです。

というのも、今の地球において多数派「定型」とされる人間タイプは、つまるところ「集団適応型」であり、しばしば「集団やり易さ最優先にするあまり、個性強い者、自分たち(多数派)と違う者を排除しようとする」ような、「非寛容」「排他的」行動出易いからです。

(もちろん、「定型発達」と「独自発達」の間にはっきりとした線引きが必ずあるわけではなく、「定型」の範疇であっても多少の「独自発達」的な思考・行動パターンを持つ人もかなりいるでしょう。ここで言及しているのは、そのような方たちではなく、まさに集団適応型の極みのようなタイプのことを指しています。)

アメリカにおける自閉スペクトラム協会によって定義された「定型発達症候群(Neurotypical Syndrome)」という言葉がありますが、まさに言いえて妙だと思います。

息子と一緒に公園や子供のための遊び場に足を運ぶと多くの子供たちの様子を目にしますが、ごくごく小さいうちから「○○ちゃんはだめ」「○○の子だけ一緒に遊んでいいよ」などと、「差別、排他」により「仲間うちを強固にする」ような行動をとる子供の様子を度々目にすることがあり、ぎょっとすることが数多くあるのです。

大抵の場合、こうした行動をとっている子供のほうが小さいうちから言葉達者だったり自分より強い者に対しては従順に振舞う行動パターンを身に付けていたりするので、検診などでは「定型発達」として「問題なし」とされるのでしょうが、子供の頃からこのような「差別」「排他」による「仲間強化」の行動をごく自然とっている姿を見ると、(一体どちらが「障がい」なのか…)と思ってしまいます。
(今の世において「発達障がい」のレッテルを貼られるタイプの子供には、こうした意地悪な排他的行動はまず見受けられないと思います。なぜなら、彼らの多くは究極的なマイペース型であり「集団の中での自分」という意識すら持ち合わせていないからです。)

お互いの個性認め合い尊重し合うような「精神的成熟度の高い」社会を作っていくには、子供のころからの「「個性を認め、尊重する」考え方を学ぶ教育」不可欠だと、強く感じます。

(もっとも、日本という「国」が、そして今の地球のありとあらゆる「国」が、「精神的成熟度の高い」あり方を目指そうとしているかは甚だ疑問ではありますが…。むしろ「コントロールし易い集団適応型人間の群れを都合よく支配したい」国(政治体制)も多いというのが、地球という惑星の現実ではないかという気もします。しかしそのようなあり方は「全体主義」以外の何ものでもなく、個々の人間性を軽視する、忌むべき体制に他ならないのです。)

光1

何のための「療育」?

日本において、発達マイノリティの子供に対して「療育」というものが促される際に、
「幼稚園や学校に行くときに、「集団生活」にうまく順応できるように」
「これから先の人生において、学校や会社など「集団生活」の中で困ることが出てくる可能性があるから」
など、やたらと「集団」強調されることが多いです。

そのような現象を見ていると、日本はやはり、「集団主義」(個性よりも集団としての機能を重視する)的なマインド強い国なのだなぁ、とつくづく感じます。

要するに、日本の「療育」重視しているのは「指示に従えるようになること」であり、「集団(学校など)の乱すようなことにならないこと」が最も大切なのだろう、という印象を受けるのです。

かたや、日本に先立って「療育」というものが長年模索されてきたアメリカですが、アメリカにおける情報に目を通していると、「集団生活」「集団適応」といった言葉はまず見当たりません

アメリカ「療育」重視されるのは、「相手のを見て話す」「普通の(定型の人間社会において良しとされる)立ち振る舞いを身に着ける」といった事柄であり、その目的はただ一つ、「(社会での)自立」なのです。

もちろん、アメリカであっても、行政のそうした取り組み根底にあるのは「人道(思いやり、尊重など)」ではなく、「自立してもらったほうが将来的なコスト(生活保護や介助のためのコストなど)が抑えられる」という合理的かつ経済的理由なのだろうと察しはつきます。

しかしどのみちアメリカの療育現場において、「集団」という考え方など、意識にすら挙がっていないのです。

日本であってもアメリカであっても、どちらにしても「療育」根底にある行政本音はそれほど素晴らしいものではないのかもしれませんが、「集団主義(全体主義)」に傾いた日本の考え方よりは「個人の自立」を目指すアメリカの目的意識のほうが、まだ「まし」なのでは、と個人的に思います。

「療育」はあくまでも、「その子の幸せ」つながるものでなければならないのです。

「集団あっての個人」ではなく、「一人ひとりの幸せあっての、幸せな社会(集団)」が、宇宙における「(倫理的に)正しい」あり方なのです。

花8

誰のための「早期発見」?

昨今の日本において、「(神経発達症の)早期発見」ということが当たり前のように唱えられているようですが、「一体誰のため?」疑問に感じることが多々あります。

「早期発見後、その子の特性合わせた子育てや環境提供が出来るように」と、「その子の特性生かす方向での幸せ」のために「臨機応変」対応をすることを目的として早期発見をするのは、理にかなっていると思います。

しかし、「早期発見」と躍起になっている行政機関(保健所や保健センターというような機関だと思いますが…)において、何か「あるべき目的からずれている」ものを感じるのです。

私自身の経験で、保健所の検診において関わった相談員小児科医発言していたことは、一様に「幼稚園や学校など「集団生活が始まったときに困ることが出てくるから」療育をしてみてはどうか」、という言葉でした。

本来、「早期発見」集団生活のためなどではなく、その子の「幸せ」のために特性に沿った環境や支援「柔軟かつ臨機応変な対応」で考えていくことを目的とすべきはずなのに、理解の足りない「審判員」のせいで、目的「レッテル貼り&排除」の方向へとずれてしまっているのです。

神経発達過程特性が「平均的でない(自閉スペクトラムやADHDなど)」からといって、幼少期から「療育」を施せば「平均的(定型)」になるのかというと決してそうではないですし、療育を施したところで、神経的独自発達組「個性」一生を通じてそのまま残ることが殆どです。

更に言えば、現在よく知られているような「療育」とは結局のところ、神経発達的大多数「定型」行動パターンに合わせるためのコンディショニング的意味合いが大きく、本来ならまだのびのび「その子らしい本来の姿」であってよいはずの幼少期に「未完全であり未知数」のやみくもに厳しい療育を強いたがために、逆に不必要トラウマを与えてしまう結果にもなりかねないのです。

(実際に、アメリカにおいてここ10年ほど、幼少期からの厳しい療育(ABA療育など、行動を厳しくコンディショニングするようなタイプの療育)により、かなり重度トラウマPTSDと呼ばれ、戦地から帰還した兵士が抱えてしまうようなレベルに相当する、かなり深い精神的外傷です)を負ってしまった自閉スペクトラム特性の方たちのが続々と取り上げられるようになってきており、従来の「(定型に合わせるための厳しい)療育」を疑問視する人間も増えてきているようです。)

そのような「深い事情」「(療育というものの)さじ加減の難しさ」も知らないような保健所「相談員」が、あまりにも単純な「平均的に発達していない=発達障がい=早期発見すべき」というスローガンのもと、じろじろと「品定め」するようなで子供を観察し、少しでも「平均的でない」と判断するや、裁くような態度で「発達障がい」レッテルを貼る(そのような「相談員」は、その無骨な態度からして、「神経発達症(発達マイノリティ)」という知識もなければ、そのような考え方すら持ち合わせていない人間が殆どではないかと思います)。

これでは「人を大切に扱う」社会のあるべき姿からは程遠いと言わざるを得ません。

その横柄なやり方からはまるで、「異端者(平均的でないもの、集団からはみ出る個性を持ったもの)」を摘発する「魔女狩り」のような、「嫌なもの」すら感じます。

保健所保健センターといった機関において、「子供が発達障がいだと認めたがらない親も多い」(だから早期発見を強化すべき)などという、非常に短絡的な考え方がまかり通っているようですが、ただ「平均的発達でない」というだけで安易「発達「障がい」」というレッテルを貼ることなど、「子供の特性や持ちえている長所に目を向けつつ「個性的な子育て」前向きに頑張っている親にとって、「何の助けにもならない」ことも多々あるのです。

本当「発達マイノリティの子供たち」こそを助けたいと思っているなら、ただやみくもに裁くような目線で「発達障がい」レッテルを貼るのではなく、個性の強い子供たちを育てる励まし勇気づけるような言葉をかけるべきですし、様々スタイルの子育ての「多様性」認めるべきなのです。

発達凹凸がはげしい「マイノリティ(少数派)」の子供にとって、最も適した環境は「定型の子供に合わせて作られている」集団型の幼稚園や学校ではない可能性は高いですし、最も適した支援もまた、「定型の子供に合わせてあみだされてきた」ものではない可能性も高いです。

最も大切なのは、「その子の特性に合わせて、生活面での様々な練習なども(定型の発達曲線に無理に合わせるのではなく)臨機応変に対応し、環境もまた(場合によってはホームスクールやフリースクールなども視野に入れつつ)臨機応変に選んであげたら良いですね。」というような、柔軟寛容な姿勢なのです。

そのような配慮すらなく、ただレッテル貼るだけ貼って「あとは(未完全かつ未知数の)療育に丸投げ」という態度では、結局のところ「定型に合わせた集団生活(幼稚園や学校など)の場を守る」ための「早期発見」であり、とんだ「偽善」に他ならなくなってしまいます。

「早期発見」は一体「誰のため」なのか、今一度熟考する必要が多いにあるように思います。

ゴールド2

自閉スペクトラム特性に関する数々の誤解

自閉スペクトラム特性というものについて日本語で書かれている情報(書籍やウェブ含め)を見ていると、「コミュニケーション能力の欠如」「共感性の欠如」など、「欠けている」「足りない」と、さも「劣っている」いわんばかりの表現が目立ちます。

しかし、事実は決してそうではないと、私は思っています。

それら(「足りない」「欠けている」という見方)は、あくまでも、「平均的(定型とされる)発達の人間から見た、一方的推測」に過ぎないのです。

正しくは「欠如している」のではなく、「(必要性が)意識に挙がっていない」のです。

今の世の中において「定型発達」とされる平均的な大多数の人間とは、「集団適応型」です。

原始の時代から、物質世界において生き延びるために、人間は「集団」となって共通の敵(獰猛な動物だったり、過酷な自然だったりと、何が「敵」かは様々ですが…)と向き合ってきた経緯があります。

「集団」の力を保つためには、まわりの人間の顔色を伺い、まわりの人間に合わせたり、長となる強い人間に従ったりする能力が必須なのです。

つまり、「定型発達者」の言う「コミュニケーション能力」とは、つまりは「集団適応能力」なのであり、「物質世界」生き延びるために人間が必要としてきた、極めて「物質的」スキルなのです。

では、自閉スペクトラムといわれる特性を持つ人間は、どのような状態なのか。

私には、「独自精神世界型」または「自己完結型」という表現がしっくりくるような気がします。

自閉スペクトラムの特性を持つ人たちにも様々個性があり、どのような性格でどのような行動パターンを持つかは人それぞれですが、おおむね共通しているのは「人の模倣しない」「人の指図届きにくい」といった部分ではないかと思います。

しかしそれらは、「出来ていない(欠如している)」のではなく、「(その必要性すら)意識に挙がらない」のです。

それは、自閉スペクトラム特性というものが、「集団適応型ではない」からです。

自閉スペクトラム特性のにとって、「合わせる→強いては集団合わせる」ことよりも、「自分自身が常に自分自身であること」のほうが、より大切なのです。

つまり、定型発達というものが「物質世界適応型」なのに対し、自閉スペクトラム特性「精神世界型」とも言えるのではないか、と私は思います。

また、「共感性の欠如」ということについては、私ははっきりと「間違い」であると思っています。

多くの「定型(平均的)発達者」ある思われているものは、「共感性」ではなく、「追従性」なのでは、と感じるのです。

定型発達と呼ばれるタイプは基本的に「集団適応型」であると書きましたが、集団の中での立場地位保つために、「心から相手の言っていることを理解していなくとも、理解しているように振舞う」、また、「心から相手の言っていることに賛同していなくとも、賛同しているように振舞う」定型発達型人間は、数多くいます。

それは、本当の意味での「共感」ではなく、集団での地位を保つために、「追従」しているだけなのです。

もちろん、定型発達型の人間であっても、意見気持ちから共感することはあるでしょう。

しかしそれは、自閉スペクトラム特性の人間であっても、同じなのです。

(ちなみに、日本における自閉スペクトラム特性についての情報は、かなりの部分でアメリカでなされた研究結果や情報がもととなっているのではないかと思われますが、そのアメリカにおける様々なレポートや情報に目を通しても、「共感性Empathyの欠如」という表現は見当たりません。ただ、日本においても昨今、「定型発達の人間でも共感性のない人間は沢山います」とはっきりと発言している精神科医の方もいらっしゃるようで、彼らの存在を頼もしく感じますが、それと同時に、一体「共感性の欠如」という表現はいつ誰が言い始めたのか、不思議に思います。)

時代が変われば、それまで「当たり前」とされてきた情報「間違いだった(未成熟な情報だった)」と認められ、より新しい情報や意識台頭してくることは多々あります。

自閉スペクトラム特性神経発達というものに関しても、時代の流れと共に、新しいポジティブ見解が増えていくことを心から願っています。

宇宙11

「(学校という)集団生活で学べる助け合いの精神」という幻想

日本という国において、学校教育というものを語る際に、「集団生活をすることによって助け合いの精神協調性を学ぶことができる」などという考え方が当たり前のように唱えられています。

しかし私はこれは真実ではないと思っています。

時代が変わり年月がいくらたっても、学校という場所から「いじめ」というものが完全になくなることがないという事実が、このこと如実に物語っているのではないでしょうか。

もし「(学校という)集団生活が人間の協調性助け合いの精神を育む」のなら、集団生活を重ねた小学校高学年や中学、高校などの年齢に達するときには、いじめというものなどなくなっているはずなのです。

しかし現実はそうではありません。

集団生活を何年しようが、人をいじめる人間は何歳になっても人をいじめたり攻撃したりするものですし、大きな慈愛生まれながらに持っている人間は、たとえ集団生活をしたことがなくともすすんで人を助けようとするものです。

(もちろん、ごくに過去の自分を恥じたり反省したりして改心する人もいるかもしれませんが、そのようなケースは数多くはないと思います。子供のころから率先して人を苛めたり悪口を言ったりする人間は、そうすることで無意識のうちに自分の価値相対的あげようとするからこそそのような行動をとるわけですが、そもそも自分自身目を向けるという精神性を持ち合わせていないからこそそのような行動ばかりとるわけで、どこまでいっても人を下げることに執心し続けることが殆どなのです。
そしてそのような人間に(子供のころから)盲目的追従する人間もまた、自分自身あり方に目を向ける精神性を持ち合わせていないからこそ、どこまでいっても強い(真の強さではなく、「声が大きく支配力が強い」、というだけの偽りの強さですが…)人間に擦り寄ることで生き延びようとするのです。
そして更にはそのような「序列構図」からはみ出る知性精神性が人よりも高かったり個性強かったりする、「群れない」タイプの人間が「少数派(マイノリティ)」としてちらほら存在する、この構図は、学校という子供の世界において既に多く見受けられ、大人になるまであまり変わることのないものです。
つまり、学校という集団生活をするくらいでは、人間の生まれながらの資質(特に精神性という面において)がそう変わることはないのです。)

また、たとえ学校という「集団生活」をしていなくとも、学校以外の環境で友達を作ることは十分に可能ですし、たとえ学校に行っていても、結局のところ共に行動したり話をしたりするのは特定の人間だけである場合が殆どなのではないでしょうか。

つまり、「友人関係を通じて助け合ったり協調したりする」という経験もまた、「集団」でなくとも出来ることなのです。

結局のところ、(学校という)集団生活でする経験として特筆すべきことがあるとしたら(ごく少人数だったり同じような資質の子供を集めたりしたような特別な学校ではなく、あくまでも一般的な、地域にある大人数の学校において、ということですが…)、「世の中には(人をいじめたり攻撃したりするような人間含め)様々な人間がいるという現実知る」こと、そして「一律号令に従う練習をする」ことくらいなのでは、と思います。

そしてそのような「(集団生活による)経験を、特に必要だと思わない」場合、(例えばアメリカのホームスクーリングのように)「学校という集団生活以外の方法」で「教育」や「経験」を得るという、「選択の自由」もあるべきなのでは、とも思うのです。

日本はそろそろ、「集団生活」にまつわる「幻想」見直しても良いころなのではないかと、強く感じます。

宇宙8

独自発達

昨今において、定型発達対する定義として長らく使われてきた「発達障害」という言葉ですが、事実そぐなわないため不適切であるという考え方が主流となってきて、医学界においては「神経発達症」という定義の仕方に変えていくよう働きかけがなされているようです。

私も、この考え方に心から賛成しています。

自閉スペクトラムADHDなど、発達過程働き方一般的ではないからといって、治すべき「病」でもなければ、必ずしも日常生活に不都合が生じる「障害」というわけでもないからです。
(日々の生活において不都合が生じるレベルは個人により違うので、「障害」が発生する場合もあるとは思いますが、「定型発達でないものはすべて「障害」」などというのは非常に短絡的安易すぎるのです。)

更に言えば、私自身は、定型違う発達具合のことを、「独自発達」と、捉えています。
(精神科医の方の中には、「定型」が多数派(マジョリティ)であることに対する言葉として、「発達マイノリティ」という言葉で表現する方もいるようです。)

「発達障害という言葉は嫌いですし、使いません。」と明言する精神科医の方がいらっしゃることに、頼もしさを感じます。

「発達検査」なるものに関わる機関(保健所病院など)で働いている人間でも、未だ「発達障害」という言葉を当たり前のように使っている方は多いですが、「あなたはどこまで、自閉スペクトラムやADHDのことを理解しているんですか?最新研究結果情報に絶えず触れ続けて、認識「更新する努力」はしていますか?」と逆に問いかけたくなります。

人にレッテル貼るような仕事をしている以上、最新の情報を集め、学び続ける姿勢をもって臨むのは義務だと思うのです。

たかが言葉、という方もいるかもしれませんが、「言葉」は人の中に「意識」刷り込みます。

「障害」と呼ばれるような状態でもないのに「一般的な状態と違う」というだけで「障害」などというのは、あまりにも短絡的で、いらぬ偏見だけを生み出す結果となってしまいます。

まずは「発達検査」「診断」に関わる人たちによって、「発達障害」という言い方を改め「(神経)発達症」「発達マイノリティ」、または私の思う「独自発達」というような、「事実が正しく伝わる言葉」を使うことを主導していって欲しいと、強く思います。

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プロフィール

りりあ

Author:りりあ
感情体に残る傷や不健全な思考・行動パターンを修復するメンタルセラピスト(カウンセラー)として、クライアントの方がポジティブなエネルギーを取り戻し、より自由で幸せな人生へと飛躍していくためのお手伝いをさせていただいております。
(特に、「毒親に関する問題」のように、家族や近親者など身近な人間から受けた理不尽な支配やいじめによる精神的ダメージを修復しつつ、「自由」を手にしていくためのサポートを得意としております。これらはすべて、学業のみならず自身の生まれ持った資質(「目に見えない領域」に対する感度が高い)、及び経験に基づくものでもあります。)

経歴:
哲学士(Bachelor of philosophy)として上智大学にて形而上学(哲学、倫理学)を専攻。心理学、精神医学など含め、「目に見えない領域」について多く学ぶ。
卒業後、外資系金融機関に身を置く。
その後、ブログ執筆及びカウンセリングによるメンタルセラピストとしての活動を開始。
現在、高齢出産にて授かった、自閉スペクトラム特性を持つ息子を子育て中。

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