メンタルセラピストりりあの心のブログ

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(人間関係におけるモラルハラスメント、過干渉、支配、依存など。自分自身の人生の自由と尊厳を守りたい、取り戻したい方のための、より具体的かつ実践的、そして丁寧で念入りなカウンセリングです。「高次意識メッセージ」および「遠隔ヒーリング」を含みます。クライアント様のメールアドレスへ、数ページにわたるカウンセリングレポートをお届けするスタイルですので、遠隔にいらっしゃる方でもカウンセリング可能であり、レポートを繰り返し読んでいただくことでより深い理解へと導くことが出来るというメリットがあります。特に初めてのクライアント様は、カウンセリングを受けていただくことをおすすめします。)
★「毒になる親(毒親、毒母)」に関するお悩みのためのカウンセリング
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独自発達

昨今において、定型発達対する定義として長らく使われてきた「発達障害」という言葉ですが、事実そぐなわないため不適切であるという考え方が主流となってきて、医学界においては「神経発達症」という定義の仕方に変えていくよう働きかけがなされているようです。

私も、この考え方に心から賛成しています。

自閉スペクトラムADHDなど、発達過程働き方一般的ではないからといって、治すべき「病」でもなければ、必ずしも日常生活に不都合が生じる「障害」というわけでもないからです。
(日々の生活において不都合が生じるレベルは個人により違うので、「障害」が発生する場合もあるとは思いますが、「定型発達でないものはすべて「障害」」などというのは非常に短絡的安易すぎるのです。)

更に言えば、私自身は、定型違う発達具合のことを、「独自発達」と、捉えています。
(精神科医の方の中には、「定型」が多数派(マジョリティ)であることに対する言葉として、「発達マイノリティ」という言葉で表現する方もいるようです。)

「発達障害という言葉は嫌いですし、使いません。」と明言する精神科医の方がいらっしゃることに、頼もしさを感じます。

「発達検査」なるものに関わる機関(保健所病院など)で働いている人間でも、未だ「発達障害」という言葉を当たり前のように使っている方は多いですが、「あなたはどこまで、自閉スペクトラムやADHDのことを理解しているんですか?最新研究結果情報に絶えず触れ続けて、認識「更新する努力」はしていますか?」と逆に問いかけたくなります。

人にレッテル貼るような仕事をしている以上、最新の情報を集め、学び続ける姿勢をもって臨むのは義務だと思うのです。

たかが言葉、という方もいるかもしれませんが、「言葉」は人の中に「意識」刷り込みます。

「障害」と呼ばれるような状態でもないのに「一般的な状態と違う」というだけで「障害」などというのは、あまりにも短絡的で、いらぬ偏見だけを生み出す結果となってしまいます。

まずは「発達検査」「診断」に関わる人たちによって、「発達障害」という言い方を改め「(神経)発達症」「発達マイノリティ」、または私の思う「独自発達」というような、「事実が正しく伝わる言葉」を使うことを主導していって欲しいと、強く思います。

光2

「経験」という最強の学び

最近、自閉スペクトラム特性について様々な書物や文献、情報に目を通していたのですが、やはり人間にとって「経験」に勝る「学び」はないと感じることは多々あります。

どれほど細かい分析がなされていたところで、「自閉スペクトラム」という状態を経験したことのない人間によってまとめられた情報は、所詮「観察」「推測」がもととなっているのですね。

そのような情報でも、参考に出来ることは多々ありますが、当事者としての「経験」に基づく、きめ細かい「感じ方」「心の動き」までは教えてはくれないのです。

自閉スペクトラム特性といってもどのような個性を持っているかは人それぞれなので一概にはいえませんが、個人的にはやはり、東田直樹さんの執筆された本や、アメリカにおいて自閉スペクトラム特性を持つ方たちが書いた手記など(またの機会に記事として書くかもしれませんが、アメリカではここ10年ほど、自閉スペクトラムのための「療育」による精神的トラウマを訴える当事者たちの声が続々と明るみに出てきているようです。)、その「経験」をしてきた方たちによる「声」こそが最強「学び」のように感じます。

「経験」に勝る「学び」はないということは、私自身を振り返っても強く思うところがあります。

所謂「毒になる親」のもとに生まれ、自分自身の本当の姿を絶えずけなされたり否定されたりするような精神的苦痛と常に隣り合わせの環境で育つという「経験」がなかったら、同じような苦しみのもとに助けを求めてくる方の「状況」「気持ち」「手にとるようにわかる」ことはなかっただろうと思うからです。

いくら教科書で真剣に学んだところで、「実際の経験に基づく感覚」が伴っていないと、所詮は「推測や観察により可能な範囲内での手助け」で終わってしまうのですね。

もちろん、どのような分野においても、研究が未だ進行中で十分に確かなものがない状態において、こうした「推測や観察に基づく手助け」も、有用なことは多々あると思います。

しかし、最も信頼に足る情報や学びは、やはり「(当事者として)経験をしてきた人間」の中にこそ多くあるのでは、と思うのです。

「経験」はまさに「宝」ですね

花13

「お喋り」で「知能(知性)」は測れない

産まれてから数年がたち、やんちゃ盛りの我が息子ですが、「自閉スペクトラム特性あり」という医師の診断を受けています。

息子の育児が始まって、日本の「幼児検診」「発達検査」というものにふれる機会を得たわけですが、正直「は??」疑問に感じることが多々あります。

「人の模倣をする」「人の顔色を伺う」というのが「コミュニケーション能力発達具合を測る目安」となっていることに、違和感を感じるのです。
(こういった検査において、「ごっこ遊びをするか」とか「指示に従うか」といった質問が多くされます)

そもそも、なぜ人の模倣をしたり、人の顔色を伺ったりするのか。それは、「自分で何をしたらいいかわからない」からなのです。

その点、自閉スペクトラム特性を持つ人間(子供のみならず、大人であっても)は、「自分が自分らしくあること」を生まれながらに知っている種族だとと言えるのではないかと思うのですが(あくまでも私の観点において、ですが)、今の世界においてはその特性に対して、「定型の発達をしていない」というレッテルを貼ってしまうのですね。

また、言語に関する部分においても、実に安易無意味レッテル貼りをしていると感じます。

現段階において、「言語の遅れがある」イコール「知能の遅れ」という捉え方をしているようですが、大人の真似をして言葉をぺらぺらと喋っていても、必ずしも「(知恵に基づく)自分の言葉」を発しているとは限らないのです。

また、早くから口が達者であっても、他の子供に意地悪なことを言ったり、他者をコントロールしようとばかりするような子供もいます。(個人的には、口が遅いとか人と遊ばないなどということよりもこちらのほうがよほど「問題」では?と思うのです。)

かたや、(私の敬愛する)重度の自閉スペクトラム特性を持つ作家東田直樹さんのように、脳機能の特性により「会話お喋り上手くすることは出来なくとも、非常に哲学的な、高度考察力感性を持っている」方もいます。

たとえお喋りが出来なくとも、どちらがより高度な知性を持っているか、後者の東田直樹さんのほうであることは明らかだと思います。

ぺらぺらとよく喋っていても、その中身は実にたわいもない薄っぺらいことだらけであったり、まわりの人に盲目的追従しているだけの人間も沢山います。

「お喋り」で、「知能(知性)」を測ることは出来ないのです。

安易レッテル貼りをして、「定型」と呼ばれる安易はめようとするのではなく、「コミュニケーション方法のバラエティ」「内なる本当の知性」大切にする人間社会へと、私たちは進化していかなければならないと、強く思います。

花8

盲目的なルールフォローを強いる人たち

世の中には、「盲目的ルール遵守することを他人に強いる」人間が、少なからずいます。

そのような方たちは、概して、「何のためにそのルールがあるのか」を、理解していないことが多いのです。

ただ単純に、「ルールなのだから守らないと駄目」と、盲目的に従い、そしてそれを他者にも強要するのですね。

しかし、「盲目的にルールを守る」態度は、ときとして非常に危険なのです。

地球という、精神的未発達人間社会において、ときに「悪」蔓延ることは多々あります。

人種差別の果てに、ある特定人種だけを虐殺したり、ある特定地域の人間を奴隷として支配自由奪ったりなど、この地球上の歴史には「宇宙における正しい流れ(在り方)」に背く「悪」猛威を振るった過去数多く存在することを、知らない人間はあまりいないでしょう。

そのような状況において、「盲目的にルールを守る」だけの人間は、いとも簡単に、「悪」加担する一員となってしまうのです。

なぜなら、「それがルールだから」と、盲目的権力従う思考回路しか持ち合わせていないため、「人間として正しいかどうか」「そのルールが従うに値するかどうか」を、自分自身見極める能力ないからです。

「盲目的にルールを守る」ということは、例えていえば、「左右両方向において全く車の影も形も見当たらない、見晴らしの良い田舎道の信号においてさえも(要するに、どこからどう見ても安全だと容易に判断できるような状況においてすらも)、「赤だから」という理由で絶対に渡ることなく、青になるまで延々と、じっと待っている」ようなものです。

そのような行動しかとることが出来ない人は、そもそも、「赤のときは止まる」というルールが、「何のためにあるのか」、そして「今の状況においてそのルールは従うに値するのかどうか」を、理解判断も出来ていないのですね。

更には困ったことに、そのような「盲目的にルールに従う」タイプの人間ほど、同じように「盲目的にルールに従う」ことを、おこがましくも、他者に強いることが多いのです。

おこがましい、と敢えて表現するのは、この世において、「自分の頭しっかり考えているからこそ、ルールに盲目的に従うことを拒否している」人間のほうが、「何も考えずに盲目的に従っているだけ」の人間に「悪者扱い」されて「攻撃」されるというシチュエーションが実に多いからです。

自分何も考えていない人間が、「自分でしっかり考えて自分の責任において行動選択をしている人間」に「説教」したり「強い」たりすることほど、おこがましいことはないのです。

「そのルールが何のためにあるのか」「そのルールは守るに値するものなのか」を、自分自身でしっかりと考え判断する態度を、身に着けていきたいですね

宇宙7

怒り

「どんなときでも怒らない」のが良い人というわけでは決してありません

「穏やか」なのはもちろん良いことではありますが、私たちはときに、自らを守るための「怒り」を感じて良いのです。

精神世界として地球に降り立ったイエス・キリスト不誠実な行いをしている人間に対して多いに怒ったという話もあるとおり、どれほど精神的成熟進化を遂げた存在であっても、怒るときは怒るものです。

「怒り」は、私たちを奮い立たせ、自らの尊厳を守るための、はたまた不正不実立ち向かうための、エネルギーとなるなのです。

もちろん、「あの人が言うことを聞いてくれない」「ちっとも自分の思い通りにならない」などと、人を都合よく操り、「支配」したいという幼稚エゴに基づく怒りには、大したエネルギーはありません

ここで言及している「怒り」とは、「正しいこと」「尊厳」を守るための「愛」に基づく、「正当」怒りのことを指しています。

私たちは決して、(下手に怒って器の小さい人に見られたくない)というような勘違いを、する必要はありません。

自分守るための正当「怒り」不必要否定することなく、ときにはきちんと「怒り」認識し、表現することで、自らをしっかり守っていきたいですね。

宇宙11

尊厳を守るための戦い

「理不尽」だと感じる扱いを人から受けても、「仕方ない」とあきらめて自分を納得させようとする人は数多くいます。

なぜ「仕方ない」と自分を納得させようとするのか、その理由はほとんどの場合において、「声をあげたところで、何かあったら困るのは自分のほう」という「恐れ」によるものでしょう。

例えば、職場において先輩や上司にあたる人間からイジメのような仕打ちをうけて「理不尽」を感じ、悔しさ怒りを感じることがあっても、「でもそのことで声をあげた結果として解雇でもされたら、仕事を失ってしまう。そうしたら困るのは自分だ」という「恐れ」

また、血縁者から絶えず「(相手の満足のために)こうしなさい」「ああしなさい」と要求され、それに従わないと罵倒されたり脅されたりするというような「理不尽」な扱いを受け、悔しさ怒りを感じていても、「声をあげたとしても、更に嫌な思いをするのは自分だ」という「恐れ」

もちろん、「声を上げる(相手の仕打ちに対して抗議したり償いを要求したりするために行動を起こす)ことのリスク」と、「(目をつぶって)現状維持した上で得られるもの」を天秤にかけ、「声をあげない」という選択をする自由は誰にでもあります。

しかしながら、「悔しいけれど仕方ない」というネガティブな気持ちのまま、自分自身の感じる「怒り」にきちんと傾けることもなく、ただただ「なかったこと」にばかりして逃げていると、私たちはいつしか自分自身に対する「自尊心」失ってしまうのです。

なかったことにしているつもりでも「怒り」感情体にどんどん溜め込まれ、自分自身に対する不甲斐なさ増幅し、いつしか「私は無力だ」「私なんてどうせたいした存在ではない」という、「自尊心」「欠如」へと姿を変えていきます。

結果として、何事に対してもやる気起きなくなってしまったり、何をやっても中途半端うまくいかなくなってしまったり、と、なるネガティブ事態起こり易くなるのです。

「自尊心」は、私たちの精神的エネルギーです。

だからこそ私たちはときとして、自らの「自尊心」を守るために、「理不尽」に立ち向かい戦う「勇気」を持つことが必要なのです。

自分を苛める人間の行為に対して「声をあげない(黙認する)」ということは、「私はそうされても仕方ない人間である」と認めるようなものだからです。

万が一、先に書いたように「声を上げる結果として起こり得るリスク」と「現状維持得られるもの」を天秤にかけ、「声を上げず現状維持のままにする」という選択をする場合、あくまでも「天秤にかけた結果、現状維持のほうが自分にとってメリットがあると判断したため、「自分自身」「意思」により、声をあげないという「選択」をした」という、「能動的(ポジティブ)」意識を持つことが何よりも大切です。

「悔しいけれど仕方ないどうにも出来ない」というネガティブ意識を持ち続けることは、「私は無力被害者である」という、自分自身に対する「不甲斐なさ」を感じ続けるのと同じであり、自尊心を著しく欠如させることへとつながってしまうからです。

自らの「尊厳」を守るために「戦う」勇気を持って、生きていきたいですね

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プロフィール

りりあ

Author:りりあ
感情体に残る傷や不健全な思考・行動パターンを修復するメンタルセラピスト(カウンセラー)として、クライアントの方がポジティブなエネルギーを取り戻し、より自由で幸せな人生へと飛躍していくためのお手伝いをさせていただいております。
(特に、「毒親に関する問題」のように、家族や近親者など身近な人間から受けた理不尽な支配やいじめによる精神的ダメージを修復しつつ、「自由」を手にしていくためのサポートを得意としております。これらはすべて、学業のみならず自身の生まれ持った資質(「目に見えない領域」に対する感度が高い)、及び経験に基づくものでもあります。)

経歴:
哲学士(Bachelor of philosophy)として上智大学にて形而上学を専攻。心理学、精神医学など含め、「目に見えない領域」について多く学ぶ。
卒業後、外資系金融機関に身を置く。
その後、ブログ執筆及びカウンセリングによるメンタルセラピストとしての活動を開始。
現在、高齢出産にて授かった、自閉スペクトラム特性を持つ息子の子育て中。

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